雪室推進プロジェクト

上越の雪室「金谷地区大貫・森田雪屋」

トロッコで運ばれる雪

JR高田駅西側の金谷地区大貫には、かつて森田雪屋が所有する雪室が存在した。雪室から森田雪屋がある寺町までは約300mのゆるやかな下り坂。その区間には線路が敷かれ、大量の雪はトロッコで運搬されていた。雪を載せたトロッコは下り坂を利用して貯蔵庫まで滑り下り、空になったトロッコは人力で雪室の場所まで登った。大貫と寺町の地形的な条件が、このトロッコでの運搬方法を生み出したと考えられる。雪室から運ばれてきた雪は、森田雪屋の敷地内にあった貯蔵庫で一時保管され、夏から秋の終わりまで冷蔵用として主に魚屋に販売されていた。冬、積もった雪を雪室内に貯蔵するための雪積み作業には、近隣の多くの農家が従事していた。農作物の育たない冬場、農家にとっては貴重な収入源になっていたようである。

当時の雪室づくりの様子。雪をソリで運んで積み上げ、かやで覆って夏まで保存した。

雪を買うおつかいが、
幼い頃の日課でした。

杉みき子さん

昭和10年(1935年)の頃、私たちの住まいから森田雪屋さんまではわずかな距離で、小学校に上がる前の私は雪を買いに行くのが夏の日課でした。当時は冷蔵庫といっても木製で、電気ではなく中に氷を入れて冷やすんです。仕事から帰ってきた父がビールを飲むので、毎日昼過ぎになるとバケツを持って雪を買いに行っていました。大きなバケツ一杯で、5銭くらいでしたでしょうか。森田さんのお宅の貯蔵庫の前で雪を買うのですが、奥に静かな暗い空間が広がっていて、大きなベッドのような台があり、その上に切られた雪が積んでありました。「むしろ」が被せてあって、幼心に神秘的に見えましたね。近所に家があまりなく、個人で買っていたのはうちくらいだったと思います。帰り道でこっそり雪を口に入れてみたこともありますが、思い描いていたようなおいしいものではなかったですね。少し鉄のにおいがして。おつかいは昭和16年(1941年)頃まで続いたと思います。

杉みき子さん

杉みき子さん

児童文学作家。1930年、現在の上越市に生まれる。1957年「かくまきの歌」で第7回児童文学者協会新人賞、1972年「小さな雪の町の物語」で第21回小学館文学賞、1983年「小さな町の風景」で第13回赤い鳥文学賞を受賞。

生まれる前に営まれた雪屋。
いくつかの名残があります。

森田貞一さん

森田雪屋は明治の終わりに創業し、昭和初頭まで営まれ、昭和16年ごろが最後だったようです。何年まで続いていたのか定かではありませんが、私が生まれる前に父の代で廃業しました。わが家の一角にはコンクリートでできた貯蔵庫が残されていて、子供の頃はそこで遊んだりもしました。実家を改築した時に、土間の下から出てきたのが「雪札」。これは雪と交換するための引換証のようなものです。直接現金と雪を交換するのではなく、雪札を販売して交換をたようです。当時は雪屋の組合もあったようで、雪札で雪の量を管理していたみたいです。他には新潟県や警察署発行の許可証も見つかっています。雪は溶けてしまうと、どれだけの量があったか分からなくなってしまいます。役所が正確な売上を把握するために、毎年の申請が義務だったのではないでしょうか。当時の預金通帳も残されていたのですが、6月頃から毎月入金があり、12月になるとピタリと止まってしまう。春には貯金はほとんどなくなってしまっていたようです。寺町の浄興寺に積もった雪は誰でも使えるのですが、それがなくなってしまうのが5月頃。だから、5〜6月から雪が売れ始めていたようですね。

森田貞一さん

森田貞一さん

飛田テック株式会社新潟オートリサイクルセンター顧問。社会福祉法人上越妙高福祉会ワークライフポニーズ顧問。上越市廃棄物処理事業協同組合監事。1949年生まれ。実家は、祖父から父の代まで「森田雪屋」を営む。

PAGE TOP